「無」の考察


神経症の治癒と「無」の概念は密接に関連しているので、ここで考察して見よう。

健康な人は毎日「無」の状態で生活しているし、神経症が治った人も同じである。「無」とは行動を開始する時に行動する自分をもう1人の自分が観察していない状態である。即ち、意識が1つであり、自分をチェックする自分が存在しない。意識は動きの中にあり、その動きが良いか悪いかを評価する自分は存在しない。

健康な人はこの状態で動くから意識は動きの中に埋没している。健康な人の心は自由であるから、動き以外にも意識は及び、脳の思考は秒単位で変化して我々の生命活動の安全を保証している。それに比べて神経症者では、動いている自分を観察するもう1人の自分が存在し、うるさく評価している。

例えば、自然に相手と話し始めた瞬間は、重症の対人恐怖患者でも症状を忘れているはずだ。相手との話しの雰囲気に入っていて、振舞う自分を評価するもう一人の自分は存在しない。所がその自然な振るまいは長く続かなく、直ぐもう1人の自分が出てきて意識が分裂し始める。

話している自分は俄かに混乱し始め、話しの筋道が見えなくなる。目を意識し始めると相手の目が気になり、彼女に対して魅力的な笑いを作ろうとして、顔が歪む妄想が発生する。次ぎは何を話そうかと考えると話が途切れ、彼女が見透したとかんぐり冷や汗がたらたらと流れる。こうなるとパニックであり、強迫観念が暴走して鬱状態に突入して行く。

無為療法の「無」の核心はもう1人の自分の発生を阻止する事である。健康な人ではもう1人の自分は存在しないし、出てくる可能性はゼロだ。神経症者では常にもう1人の自分が存在していて人格は2つに分裂している。

私は神経症の本質は恐怖、不安でなく、思考の混乱であり情報処理の停滞と解釈している。要するに対人恐怖患者は対人場面で恐怖パニックが起きるばかりで無く、情報処理が出来なくなり、従って目の前の雑用が見えないし出来ない。

「無」の心境では人格は1つに統合されていて、何を開始するにも2つの人格が衝突する事が無い。雑用とは目に留まったものを単に拾い上げて開始するだけである。コンピューターの問題が気になった時は、コンピューターの電源を入れて問題個所の修理をするだけであり、Eメイルの返事が気になれば、単にそのEメイルを探して文を読み、それに返事を書いて発信するだけだ。

神経症者にはこの「無」を再教育しないとならない。卑近な例は毎日の朝一番に始まる。起きあがってトイレに行く時を思い出してもらいたい。このトイレに行く動作をもう一人の自分が監視している神経症者は余ほど重症患者でもいないであろう。単に行きたいから行くであり、これが「無」の動作である。

手を洗う、顔を洗う、布団を上げる、部屋を片付ける、食事の用意をする、健康な人はこれらの動作を「無」の状態でやっているから何等思考に滞りが無い。所が神経症者では布団を上げる動作にも意識の分裂が伴っていて、布団を上げるべきかどうか、もう1人の自分と協議するから大変な精神的エネルギーを必要とする。

神経症を治すとは「無」を再学習する事である。



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