禅と無為療法の関係



2002年4月14日の読売新聞に江崎玲於奈氏の寄稿が載っていた。”創造育てる自主性と自由”と題した寄稿の中で鈴木大拙の禅仏教入門を引用して
次のように言っていた。
「禅 は決して論理、分析の上に築き上げた体系ではない。禅は何も教えない。禅に何か教えるものがあるとしてもそれは各人の心から出るものである。禅は神を持たず、儀式も無く、死者が転生して行く来世といったものも持たず、禅は全てのこうした教理的、宗教的邪魔者から解放されている」
これは無為療法に大変似てないだろうか。私は意図的に禅を遠ざけていたが、この文章を読んで無為療法が禅の世界にそっくりであるのが分かった。

無為療法では論理、分析を否定している。こうすればこうなると予定する事を否定する。だから無為療法がどれだけ有効か過去のデータを探ることを禁止する。 最近無為療法に対する世界からの問い合わせが多くなって来たが、予想されていたとは言え彼等の神経症を治すアプローチには手を焼かされる。彼等は無為療法の成績のデータを見せろと言う。成績が良ければやるし悪ければやらないの態度だ。

果たして無為療法の過去のデータを見て神経症が治るものだろうか。神経症とは迷い病であり、その迷いを無為療法の過去のデータを見て吹っ切ろうとする。神経症の治癒とは人間の極限に迫り、生きるか死ぬかの選択に迫られた時にふと目の前が開ける奇跡のようなものであるから、これでは当然失敗する。

私が神経症が治るきっかけを与えてくれた宇佐先生の本を読んだ瞬間には治る可能性、確率は全然眼中に無かった。もしいれていたら今の自分は無いであろう。本を読んだ瞬間、自分が今まで努力をしていた全てが間違いであったと閃いた。もう今後、金輪際神経症を治す努力はしな い。神経症が治ろうが治るまいが、治す努力の完全停止を決意した。この深い決意が無為療法の本質であり、合理的計算は存在してはならない。
無為療法は何も教えない。何か教えるものがあるとすればそれは各人の心から出てくるものである。無為療法は神経症がどのように軽快してどの手段をとればどうなるかを一切説明しない。
私は良く質問をするなと言うが、それはこの事なのだ。神経症とは体の病気と違って、判断する脳に異状信号が出ている。合理性を求める脳がおかしいなら、合理的説明も意味ない。今まで神経症治療に失敗して来た理由は合理性を求める自身の脳を正しいを思い、その脳の命令するままに努力をしてきたからである。

合理性を求める脳に異常がある場合は合理性そのものを否定しないとならない。合理性の反対側とは今までに経験した事が無い禅の悟りのようなものだ。悟りと言うと不可能と思うかも知れないが、日本人の誰もが毎日経験している事で、「無」の状態で何かをする体験である。この通りに考えているからこのように進むと期待する事を忘れ、計算を忘れ、道筋を忘れ、忘れている事さえも忘れ、そのまま時間が経つ経験である。
無為療法で神経症が治ると一切の説明、手段、手がかり、努力、心理分析、生の欲望、向上心、頑張りから解放され、真の自由を獲得する。無為療法で神経症が治るとは禅修行で悟りに達するのと同じかそれ以上のレベルに到達するようである。
無為療法は功利主義を実践しているのでは無い。動物としての究極的生きかたを述べているに過ぎ無い。人間はなまじ大脳が発達したお陰で不安を解釈しよう とする。不安とは犬、猫にもある内部脳の扁桃体と言う小さな組織から発せられる信号で本能に属するから、人間の高度の前頭葉でも打ち勝つ事が出来ない。

犬、猫では神経症はおそらく存在しないだろう。何故なら内部脳から伝わってくる不安、恐怖を分析する事が無いからだ。人間は悲しい事に分析し、合理的判断を下しそこから神経症が始まる。神経症を治すとはその分析脳の邪魔を廃しもう一度犬、猫と同じように、強烈な不安の後も何も無かったように前進出来るようにすることである。その為には一度合理脳を停止させ、原点に戻って 「無」を実践しないとならない。




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