無為療法の本質


仏に会って仏を殺せ
この言葉は私が37歳の頃、始めて六甲山の麓にある禅寺に参禅して、一晩の座禅を経験した時、そこの禅匠の言った言葉です。何と、お釈迦様の功徳を説教するはずの禅匠が、仏を殺せと言った。この衝撃は今でも忘れる事が出来ないのですが、その時に禅は仏教を越えて科学の世界に入っていると、神経症の身で思ったものです。

無為療法でも仏を殺すのが無為療法の本質なのです。無為療法に出会って、無為療法を殺す勇気が貴方にはあるかどうか。必死に斎藤が薦める雑用を実行しようとすると、無為療法にすがり付く事になる。何れ自己矛盾を起して、雑用は停止してしまう。無為療法の本質とは、無為療法そのものを否定し、このサイトを一切見ないと断言し、ただ前進する姿です。その結果、自然に雑用の意味が分かり、斎藤の主張が正しかったと理解する。

決して、無為療法の否定は催眠療法や森田療法に変更するのとは違う。以前、まぶたを動かすのも雑用の内だと言ったら、「斎藤さん、今日は一日中まぶたを動かしていました」と報告がありましたが、それと同じ位ナンセンスなのです。下は無為療法で成功した人の意見ですが、無為療法の核心を突いている。
すべての否定が無為療法と言っても過言ではないのです。まず無為療法の否定、 私の否定、雑用の否定、認めることも努力も、全て否定した所に無の境地があります。禅で言うところの無、世に言う悟りです。すると不思議なことに斎藤を信じられるようになる。全てを否定した後に無為療法だけが残るのです。無為療法だけが残ったあなたは神経症の外側にいます。
必死に雑用をする姿や、苦しくてもやるべきをやるは無為療法ではない。一切の神経症を治すであろう情報を拒否し、自分の地獄をそのままにして、ただ前進する。その結果、成功したと言うのは余計です。成功も失敗も無く、ただ歩むだけです。ある日気がついて見たら、自分が神経症の外側に居るのが分かる。これこそが間違い無く神経症の治りであると確信するようになる。

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